重い音が二人の間を隔てる。
頼んで入れてもらえるとは思ってなかったけどさ。
美鶴は再び扉から少し離れ、暗闇の中に身を蹲らせた。
だって、霞流さんの他に顔見知りなんていないから入れてくれる人もいないだろうし、だからと言って話があるから他の場所まで付き合ってくださいと頼んだところで、応じてくれるとも思えないし。
そもそも、他の場所っつったって、どこへ連れていけばいいのやら。
そんなこんなで一時間。
「はぁ」
思わずため息が漏れる。携帯を取り出すと、もう二十二時。
霞流さん、いつ頃出てくるんだろう?
この一時間ほどの間にも人の出入りはあった。人が出てくるたびに美鶴は首を伸ばし、人違いに落胆する。
ひょっとして朝まで居るのかな? 朝帰りだって多いらしいし。
朝まで、かぁ。
携帯の灯りがフッと消える。暗闇が広がる。
この携帯、借り物なんだよねぇ。
手にするたび、使うたびに、心のどこかが重くなる。
携帯返せって言われたらどうしよう。
いつもどこかで、そう考えている。特に霞流が本性を露にしてからは、いつ言われるのかと冷や冷やしている。
だが不思議な事に、彼からそのような事は言われない。
私がメールや電話で霞流さんの気を引こうとするかもしれないのに。本当に私の事をウザいと思っているのなら、ゼッタイに携帯は取り上げるはずだ。そうしないって事は、私の事、口で言うほどは嫌がってはいないって事なのかな?
そんなのは甘い考えだと頭を振る。
試されているような気がする。
携帯という、安易に連絡の取れる手段を敢えて美鶴に与え、それを使うか否か、試しているような気がする。
会いたいとか、今何してるの? だとか、自分の近況を伝えるメールなどを送って気を引こうとすれば、途端に離れていくような気がする。普通の男性ならその方法でこちらの存在をアピールする事もできるのかもしれないけれど。
ダメだと思う。
暗闇に、白い息が広がる。
霞流さんには、逆効果のような気がする。
ひょっとしたら霞流さんの携帯の方では、私の電話やメールは拒否設定されてるのかもしれない。メールが受信拒否されて、送っても撥ね返ってきたらショックだ。ヘコむ私を想像して霞流さんが愉しんでいるのかもしれないと思うと、メールも送れない。
うぅ、霞流さんがそういう人だなんて、思いたくはないんだけどなぁ。
携帯のボタンを押す。先ほどから、まだ二分しか経っていない。
さすがに心が萎えそうになる。身体が芯まで凍る。この場所を見つけるのだって苦労した。普通の人間にはわからないような場所にあるのだし、二度来たからと言っても、やはりわかり難い。一度目はただ霞流の後を付いてきただけだった。
帰りは、覚えてもいない。
膝を両腕で抱える。重心を少し移動させると、足元でパシッと鋭い音がした。小さな音ではあったが、とても冷たく、研ぎ澄まされたような音だった。
地面に張った氷が割れたのだ。
ガスや水道管の工事で掘り返したりしたのだろうか? アスファルトが継ぎ接ぎのように敷かれた道。古いアスファルトと新しいそれとがまるでパッチワークのようで、継ぎ目が窪み、場合によっては水も溜まる。
冬の夜は冷える。人通りも少ない、陽のほとんど当たらない路地なら、氷も張りやすい。
足元を眺める。暗くてほとんどよくわからない視界の中で、ほんのりと白い薄氷が浮かび上がる。割られてヒビの入った氷に、何かが映るはずもない。
こんなに暗くちゃ、たとえ映ってても見えるはずもないか。
美鶴は膝を抱え直す。
こうしてここで待っていれば、その健気さに霞流の心も動く。なんて甘い考えを持っているワケではないが、今の美鶴には、他に自分の気持ちを表現できる方法が思いつかなかった。
むしろ逆に呆れられて煩いとかって罵倒されそう。この寒さの中で待ち呆けの末に突き放されるのかぁ。それはさすがにキツいよな。
慎二に献身的な愛を注ぎながらその心を踏みにじられていった女性が何人もいたと、智論は言っていた。
こうやって待ってた人もいたのかな? いたとしたら、その人の想いは、霞流さんには届かなかったって事だよね。
だが、じゃあここでさっさと退散すればよいのかと考えると、それではやはり情が無いような気がする。それこそ、俺への愛なんてそんなモノかと蔑まされるだけのような気がする。
これが瑠駆真とかだったら、もっと賢い策でも思い浮かぶのだろうか?
瑠駆真。
昼間、駅舎で責めてしまった。原因はお前だと詰ってしまった。
「わかっていたら、僕が君を困らせるような事なんてしないって、わかるだろう?」
切なそうな声が、冷えた耳に響く。
わかっている。本当の原因は瑠駆真じゃないって。悪いのは同級生の小童谷陽翔だって。
瑠駆真の母親に恋をし、相手の死による寂しさを瑠駆真への八つ当たりで紛らわそうとしていた少年。
「自殺だというのなら、楽しげなクリスマスの雰囲気に耐え切れず飛び出したといったところかもしれない」
そんな事で自殺なんてしまうものだろうか? ワケのわからない嫌がらせを繰り返すだろうか? もしそうだとするならば、やっぱり小童谷陽翔という少年はどこかイカれている。例え好きな人が死んでしまったからといったって、そこまで追い込まれる事はないだろう。
だいたい、人はいつかは死ぬのだ。それは誰でも知っている。好きな人が死んだからといってあれこれ落ち込むのは、人生に対しての考え方が甘いからだ。死という現実を真面目に考えた事がないからだ。
好きな人が死んだからといって不幸面して周囲に当り散らすのは、ただ単に我侭なだけだ。そんな不幸を背負っている人は世の中にはいくらでもいる。自分だけが不幸なのだという被害妄想だ。自意識過剰というヤツだ。
考え出すと、なんだかだんだん腹が立ってくる。
そんな人間のくだらない悪戯に巻き込まれたというのなら、やはりこちらは大迷惑だ。私も、そして瑠駆真も。
瑠駆真。考えれば、結局は彼も被害者の一人だ。それはわかっている。なのに自分は彼を責めてしまった。
だって仕方ないじゃん。
額を膝に当てる。
だって私は、瑠駆真の気持ちは受け入れられないんだもん。
瑠駆真、どうして私なんかを好きになったの?
寒さからくる眠気もあり、ボーっと思考の中へ引き込まれつつあった美鶴には、扉が開く音は聞こえなかった。
「ちょっと、アンタ」
頭上から掛けられる甘ったる声にも、ぼんやりとした顔をあげるだけ。
「ひどい顔ね」
女のような男の顔が、暗闇の中にボヤッと浮かぶ。異常に白いその顔は、人によっては生首と見えるかもしれない。
「でも、少しは根性あるってところかしら」
「根性?」
目を擦りながら瞬きする。よく見ればこの人物、いつも慎二にピッタリとくっついている存在だ。あの夜、慎二が始めてこの店に美鶴を連れてきた夜、目の前で慎二の唇を奪った男性。
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